後遺症との暮らし
今日は朝からすこしゆっくりして、時計のベルトを発注しました。
自分をねぎらうために、10年近くの憧れだったブルガリの素子モデル(レッタンゴロ)を(もちろん中古新品のやつでねw)手にしてからは、CITIZNの安いステンレスタイプのとかが普段遣い、ブルガリは銀行の支店長等と合う時に、勇気を出すためにつけていました。
いまはもう、そういう武器はいらないなって思っていたのと、素子もわたしの最終的なロールモデルでなくなったこと。そして・・・暫く、派遣先の人たちの豪奢な生活をみることで精神が毒されていたなと。従来の質素な在り方に戻ろうと、両親の質素さを大切にする暮らしを再見する時間ができたことで、強く思うようになり、身の回りのものは身の丈に合うものにしようと考えるようになったこと。
そして、そんなことよりなにより、私を手伝ってくれているすてきな仲間に、この素子モデルがキラキラととても似合い、かつ、きっと彼女の勝負時を支えてくれると思ったから、貰ってもらいました。
実は、この時計を使う前、役職についた証として、おそるおそるモーリスレノマのベルトがバーガンディー色のスクエア型の時計をセールの時に・・・ 1.3万円くらいだったかな・・・買ったんですよね。
それを身につけ始めてからたいして過ぎてない時に、現場とすごい軋轢が生じ、退職まで脳裏をよぎったこともあり、この時計はげんをかついで?ずっとお蔵入りしていました。
振り返ると、当時は、事務長になったんだ、ってことで、すごく力が入っていたんだと思います。
いまでこそ名実ともに現場の気持ちを掌握できて、だからこそ手放して管理できるようになったなぁって思えるけど、当時は中間管理職みたいに思われていたのもあったし、現場もわたしに仕切られるのを嫌がっていたのだと思います。
久しぶりに、その腕時計をみにつけてみました。
なんでベルト色をバーガンディーにしたのかって、わたしの出生図のアセンダント(外見や雰囲気を表す星)が「蠍座」だからです。蠍座のメインカラーはバーガンディーなんですよね。
でも、今年、わたしのなかで華奢で可愛いベージュの腕時計をつけたいなぁという欲求が高まっており、バンド交換をしてみようかな!って思い立ちました。昨日偶然、ファッションでもベージュが今年の流行、ということで、安いくすみカラーの時計でも良かったんだけど、手元にあるものを活かし直せないかなと思って。
その年のラッキーカラーをベルト色に挿すのも、なんかいいなっていうのもありました。
今年は、ベージュ、ブラウン、ゴールドが、私のラッキーカラーなんですって。
しかしベルトって、専用の工具で外せるんですね。
今日、外すのをためしてみてびっくり。
ちょっと明るめのベージュだけど、届くのがとても楽しみです。
さて、EATをはじめて3回目。
まだはじめのほうだからだとおもうんだけど、先生はかなり優しく擦ってくれているので(※10数年前、某所で経験した時はケタ違いの痛み度だった)、出血量も少なめ。
それでもやってみると、いろいろと回復するのが都度わかる。
いままでは、頑張ってみても、一定時間すぎたり、新しいことに直面して集中して脳を使うと、突然 スン! と電源が落ちてしまい、一度動けなくなると、身体を全く動かせなくなる感じだった。昨日は割と遅くまで起きてたんだけど、珍しくそれが起きなかった。
面白いのは、無理がまったく効かなくなったおかげで、視野も考え方も捉え方もだいぶ柔らかくなったということかな?
後遺症に、ここからくる激変に備えて、頭の使い方、心の扱い方、身体の弱い部分のメンテナンス、しっかりしとけって言われてる、そんな気がしてます。
いまは、前のように、何かになりたいとか、焦りのまじったような欲求とかも綺麗さっぱり消えて、いまはただ、自分のリズムで、訪れることや、自分から訪れていくことに、ただ心をひらいていれたらいいかなと思うくらいです。
ともかくやりたいことはさきにやって、そうすると残った時間が短くなるから、仕事はその時間で上がるように徹底的に工夫する。できなければ人を雇うか、締切に間に合わないか、断ればいいんだなと。無理だからこそのある種の諦念のようなものが生まれ、それに伴って、世界と接する際の軸が、完全に自分の中心に立った気がする。
今までは仕事に自分を合わせてたので、増大し続ける仕事量にキリがなかった。
どこで力を入れて、あとは抜いておくかという、コツのようなものとやっていくフェーズにきたのかもしれないだけかもだけど、こういう自由な感覚はすっかり忘れてたから。
こんなに人間は自由でいられるんだなって、なんか驚きみたいな感じがあります。
まあ大抵の人には、ごく普通のことなんだろうけどね。
なんせ緊張しぃだし心配性だったから~
楽器ですが。
ギターは自分のため、愛機は人のために弾きたい楽器なんだなぁと改めて感じるようになりました。
楽器の表現特性で、できることって変わってきますよね。
自分に技巧が有るかどうかはともかく、Azilizはやはり音質や音色が、相手を傷つけにくく、包み込みやすいように感じる楽器なんですよね。
ギターは激しさを内在した音を出すことが許されるので、表現の可能領域が広いように思え、自分のため向きだと感じています。
私のコミュニケーション傾向や質・量と照らし合わせて、そんな風に感じる、ということなんですが、今まで感じてきたAzilizに対する接し方や練習量に壁を作っていた、楽器の「背中の重さ」のようなものが、このバランスが取れてなかったからだと、ギターをはじめてから知りました。練習の先の、人のケアを背負うっていうのが、きっとしんどかったんだと思う。
別の楽器を習ってみる、というのは賭けでしたが、いい結果になったなと思います。
音楽理論の学びの過程で、ジャズで不完全燃焼だった部分を超えていくたびに、音楽というものに、違う形で触れられる気がしてます。
そうそう、全然関係ないけど、誕生日に、リア&SNSともだちさん外で、本当に不愉快になった出来事がありまして・・・。一瞬すさまじい激昂があったんですけども、自分が感情に囚われているのに気がつけて、割と早くそこから意識的に一歩抜けることができました。
自分としても、過去あれだけ腹がたったのは初めてで、それなのにあんなにすぐ切り替えができたことに、感情のメカニズムの理解をすすめた成果をかんじています。
まだ読み終わっていませんが、「そもそも感情って何?」的なところからガッチリ定義されており、とてもよいなーとおもったkindleでして(※紙媒体はまだ販売されてない様子)、このメカニズム、CTFARの内容と被っているような気もしました。
さーて、今日も笑顔で、ボチボチ行きましょうか。