ひび

コロナの後遺症で上喉頭炎となり、後鼻漏が悪化してよく咳をしてたんだけど、とうとう肋骨にヒビが入ったらしく、、 昨日、先生に手当してもらったけど、咳をしたり、笑ったり、なによりくしゃみがまだ酷く痛む。

先月末から今月の頭にかけて、大切だなと思っている職場の子に言い聞かせみたいなことをしなくてはならない日々が続き、自分なりに解決をして、いまはまた一緒にやっていけるようになった。

ほんと随分揉めたけど、その子が大切だから、疑心暗鬼から正気に戻れたんだと思う。人を疑うことがどう相手に映るのか、よくわかっていたのも大きかった。

一緒に仕事をする上で、譲れない線はあり、それ以外は全て水に流す、という処理をした。何でもかんでも定義づけしやすい自分には慣れないやり方だったけど、結局、試されたのは自分だった。

起きる事象は、自分に全ての責任がある、と考えた時、どれだけ自分の弱さ故の黒い思いに自分がとらわれていたのかを知り、彼女を許すことができた。

ああ、師匠に破門されたんだなと思ってから、一ヶ月が過ぎたことのようだ。

世界にはいろんな選択があり、それが相手にどう響くかは運のようなものだ。

義務や、美しい枠組みのなかにおける自分のありようの調整をきちんとやる、的なことは、愛とはまた違うなと思う。

人を許す時、ただしさはそこには存在できないからだ。その違いくらいは、分かる年になった。愛についてを口でどのように説明されても、違うものは違うとわかる。

奇しくも同じ出来事を違う立場と違う結果から経験することになり、本当にいろんなことを考えた。

相手のことを知っているような気になることだけは、気をつけないとなと思う。

相手に近づくほど、相手が見えなくなる。

だけど、わたしの人との距離感は、割と昔から変わらなくて、割と遠かったりする。

美輪明宏の寺山修司からの言葉の、膝に上がって顔を舐める、みたいなやつだけは、勘弁、というやつだ。

誰かに愛されないことにも、一喜一憂しなくなった。世界にはもともと人を愛せない人だっていて、別に悪いことじゃない。嘘で塗り固めるより、愛せないと伝えてくれるひとのほうがずっといい。

仕事を通して、しつけのようなものも学んだ。

父の周りでもよく起きてたけど、そんなこと言われるの?やられるの?ってことを、深く親しくなったひとにされることがとても多い。

昔はされるがままだったけど、今の仕事を経て、嫌なことは嫌だということの大切さをしった。

それが自分を守り、結局は双方の関係を常識的に保つ。

あらゆることの最後に出る調和という言葉は、結局、常識というものに現れていると思う。たくさんの人たちが、その場で、一緒に生きるために編み出してきた、副作用の少ない、調和の仕方。。

わたしは仕事が好きだ。

仕事のいいところは、生き方やスピリチュアル的なことを指図されないことだ。それは、そもそもそれぞれが生活の裏側でやってゆけば良いことなのだと思う。

一緒に生きるために話し合うことはしても、人の生き方には口を出したくない。わたしの価値の上位には、自由という言葉があり、それは相手にも担保されるべきであると思う。

だからわたしは、ティール組織みたいなのが、一番苦手だ。

DIARY

Posted by とも